Life in Kumamoto by Taiwanese

搭乘周遊巴士,探訪世界文化遺產「天草的崎津村落」的魅力(No.1)

這一次,我們利用周遊巴士,去探訪了天草基督教徒史之旅。以下介紹給大家參考。

位於熊本縣西南的天草諸島,這裡氣候溫和,且有豐富的魚獲資源,是與阿蘇地區並列的熊本一大觀光景點。加上面向東海的天草,也是大家熟知的基督教帶來南蠻文化的歷史區域。

散布在海上的諸多島嶼,從三角到天草上島,可以由天草五橋,以及越過2座橋(天草瀨戶大橋、天草未來大橋)抵達下島。順道跟大家說,在120座天草諸多島中,僅有18座島有人居住。
前往周遊巴士出發站的本渡市(下島)的途中,所到之處都有海景及山景絕美的觀光景點及拍照熱點,我們繞去晃晃,結果從熊本市區直達2個小時的路程,花了4個小時才抵達。不過非常地值得。

熊本⇔天草(本渡) 搭乘巴士前往時

從櫻町巴士總站搭乘「快速天草號(快速あまくさ号)
成人(來回4,300日圓)。

這次旅遊的主題是『天草基督教徒的歷史』,如果事先了解的話,對於史蹟及展覽品會更能明瞭,所以我們在這邊簡單介紹一下這段歷史。

基督教的傳教與被彈壓的歷史

傳來
15世紀歐洲各國欣起了大航海時代,因此基督教也傳入了日本。
當時的日本正處於戰國時代,一心想要統一天下的織田信長,藉由保護基督教徒與西方國家維持著互利的關係,藉以取得槍砲等的軍事協助與西洋文化。

展開、彈壓
16世紀後半,耶穌會的傳道士們來到天草進行傳教。
在天草的民眾中,基督教信仰擴大,設置了被稱為collegio(葡萄牙語)的神學院等,許多的年輕人學習基督教,並參與傳教的活動。然而,在織田信長死後,豐臣秀吉、德川家康發布禁教令,嚴禁全國信奉基督教,因此天草的基督教徒也受到嚴厲的彈壓。

對岸的島原,其藩主的松倉勝家更是對領地百姓課以幾乎無法過活的重稅,對於無法納年貢的的農民、不願改變信仰的教徒進行嚴刑拷打、處刑。為反抗這種情況,與天草領地的百姓聯合,由年僅16歲的『天草四郎時貞』(Amakusa Shiro Tokisada)為總帥,領百姓3萬7千人武裝起義與12萬人的幕府軍戰鬥,發生了「天草、島原之亂」(1637年)。
在島原的原城中被包圍3個月及對戰的結果,雙方死傷慘重,領地百姓這邊的男女3萬7千人全部死亡才終結了此叛亂。

潛伏
在天草、島原之亂後,天草的教徒被更嚴厲的監視,但是不願捨棄信仰的人們只能偷偷地持續信仰,成為了潛伏基督教徒。基督教禁教的禁令牌在240年後才得以廢除,那時已是1873年(明治6年)了。

 

天草地區是一個能看到有著這樣歷史的潛伏基督教徒相關遺產(世界文化遺產)的地區。

(請看次頁)


【日本語】

『周遊バスで訪問する、世界文化遺産「天草の崎津集落」の魅力 No.1』

今回は、周遊バスを利用して天草キリシタン史を訪ねる旅のご紹介です。

熊本県の南西に位置する天草諸島は、温暖な気候と豊富な海産物を楽しめる、阿蘇エリアと並ぶ熊本の一大観光スポットです。
また、東シナ海に面している天草は、キリスト教とともに南蛮文化がもたらされた歴史的な地域としても知られています。

海上に点在する島々は三角から天草上島までの天草五橋と、2つの橋(天草瀬戸大橋、天草未来大橋)を渡って下島まで行くことが出来ます。ちなみに120の天草諸島のなかで、人が住んでいる島は18あります。
周遊バスの出発地である本渡市(下島)までの道中も、いたる所に海と山の絶景が堪能出来る観光&撮影スポットがあるので、つい寄り道してしまい熊本市内から直行2時間のところ到着まで4時間かかりました。寄り甲斐があります。

熊本⇔天草(本渡) バス利用
サクラマチバスセンターから「快速あまくさ号」大人(往復4,300円)をご利用ください。

ツアーのテーマである“天草キリシタン史”を事前に知っておくと、さらに史跡や展示物に興味を持っていただけると思うので、簡単に説明します。

キリスト教の伝来と弾圧の歴史

伝来
15世紀ヨーロッパ諸国で起こった大航海時代により、日本にもキリスト教が入ってきました。
当時の日本は戦国時代で、天下統一を目指す織田信長は、キリスト教を保護する見返りとして、鉄砲などの軍事協力や西洋文化を手に入れるという相互利益の関係にありました。

展開・弾圧
16世紀後半イエズス会の宣教師たちが天草を訪れ、キリスト教を広めました。
天草の人々の中にキリスト信仰が広まり、コレジョと呼ばれる神学校が設立されるなど、多くの若者たちがキリスト教を学び、布教活動に参加しました。しかし信長の没後、豊臣秀吉・徳川家康による禁教令により全国的にキリスト教が禁止され、天草のキリスト教徒も厳しい弾圧を受けるようになりました。

対岸の島原では藩主の松倉勝家が領民の生活が成り立たないほどの過酷な年貢の取り立てを行い、年貢を納められない農民、改宗を拒んだキリシタンに対し熾烈な拷問・処刑を行いました。それに対する反発から天草の領民と連動して16歳の“天草四郎時貞”(あまくさしろうときさだ)を総大将とする3万7千の領民と12万の幕府軍が闘う「天草・島原の乱」(1637年)が勃発しました。
島原の原城に籠城し3ヶ月に及ぶ戦いの末、双方に多大な犠牲者を出しましたが、領民側は老若男女3万7千人全員が死亡して終結しました。

潜伏
天草・島原の乱の後、天草のキリスト教徒はさらに厳しい監視下に置かれますが、信仰を捨てられない人々は、密かに信仰を守り続け、潜伏キリシタンとなりました。キリスト教禁制の高札が撤廃されたのは約240年後の1873年(明治6年)です。

天草地方にはこのような歴史に触れる潜伏キリシタン関連遺産(世界文化遺産)を見ることが出来ます。

(次ページへ続く)

撮影:BABI・編集部F/文:BABI/翻訳(台湾華語):編集部F